長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

織田・徳川連合軍と武田軍が激突した設楽原の決戦は、天正三年五月二十一日のことである。
天正三年は西暦で一五七五年。旧暦の五月二十一日は、現在の太陽暦に直すと、七月九日になる。
思わぬ敗戦となったこの日は、武田軍にとって取り返しのつかない残念な一日となった。
これを五・七・五に詠みこんで古戦場カルタの一句にした。
・ 「一五七五(いちご・ない)」は、武田の一期(いちご:生涯・歩み)が、ここで「七五(ない)」終わってしまう。
・ 「武田七九(なく)」は、残念な結果となったあの七月九日、かつてその名を響かせた武田の名が、悲しんで「泣く」。
武田の将兵たちは、打ちのめされた戦場から、傷ついた友を助け、自らも負った手傷の血をぬぐい、時に敗軍と知って襲う土民を警戒しながらひたすら故郷をめざす。
必死にたどる歩みの中で、彼らの胸中に去来する「これからの武田」を思うと、なぜか悲しかった。

設楽原決戦場の石碑

PAGE TOP