長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

奥三河から平野への出口に位置する長篠城は、武田信玄の死を境に、武田方から徳川方へ移った。
天正元年夏のことである。
時を同じくして武田から徳川へ走った作手奥平家の嫡男貞昌を、徳川家康は長篠城主にあてた。
奥平家は、徳川側に移ったことで、武田方の人質になっていた弟の仙丸らが鳳来寺で処刑され、後に引けない事情にあった。
二年後の天正三年四月、長篠城の奪還を目指した武田勝頼の大軍が、長篠城を囲んだ。
それから二十日余り、五百の城兵は一万五千の武田軍の猛攻に耐えてよく戦ったが、五月十四日頃には武田軍は本丸近くにまで攻め込んできた。
強右衛門や金七郎の使者が城を脱出したのもこの頃である。
十八日、織田信長軍が徳川軍と共に設楽原に布陣すると、状況は一変し、二十一日武田軍は敗退した。
決戦翌日、城主貞昌は長篠対岸の有海の小呂道坂で信長・家康と対面し、城を守り抜いた戦功により、信長の「信」の一字を与えられ、以後「奥平信昌」と名乗ることになった。
翌天正四年には、三年前の家康の約束「起請文」の通り、領地三千貫の加増と家康長女の亀姫との婚儀が行われた。

長篠城本丸跡

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