長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

信玄台地の東裾を南北に流れる五反田川筋は、武田軍にとってその生死を分けた戦場離脱の道筋である。
柳田・名高田方面の連吾川戦線から、藤谷の峠を越えて逃れてきた武田の兵士は、川沿いに宮脇を北上し、浅木から出沢を目指した。「甲田」伝説や「鑓畑」の地名がそれを物語っている。
真田信綱・昌輝の兄弟塚もここにある。三子山の真田碑は、三角柱状の根府川割石面の両面に「真田源太左衛門尉信綱之墓」「真田兵部丞昌輝之墓」と兄弟の名が一つの石に記されている。
宮脇から浅木へ抜ける村境のこの辺りは、台地の山が両岸から川に迫り、川筋を東に押し曲げ、自然の要害を作っている。
この地形を利用して、追撃態勢に入った連合軍をここで押し止め、勝頼本隊の退路を確保したのが、真田信綱・昌輝兄弟を中心とする真田一族であったのだろうか。
その状況証拠が、村境のすぐ下手の真田兄弟をはじめとする一族の塚と読める。
真田隊は、はじめ馬場信房隊と共に織田軍左翼の丸山砦方面を攻撃し、第一の柵を破りながらも、一族の多くは三子山に葬られている。
※「三子山」は「御子山」とも書く。

真田信綱・真田昌輝の墓

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