長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

武田軍に囲まれた長篠城中から、五月十八日、来援に駆け付け設楽原に布陣する連合軍への注進は、『来援をせかじ』であったという。「城危うしとばかり、戦いを急い(せく:急ぐ)ではならない。
態勢を整え、万全な準備の上で始めてほしい」と。
この連絡の役を引き受け、城を脱出したのが、鈴木金七である。
鈴木金七…金七は金七郎重正といい、奥平の家臣で、戦場となった設楽原川上の生まれ。
何故か、後に作手田代に帰農している。川上村白山社の記録に「田代村氏子金七郎」とある。
この、鳥居強右衛門に続く城からの第二の使者としての金七説に対し、地元文献の『長篠日記』は、第一の使者が「二人」だという。
水練達者な金七と強右衛門の二人が、五月十四日、城を抜け来援途中の信長に、城の窮状を訴えたというのである。
作手田代には、今も、金七の子孫といわれる鈴木家がある。

禅海寺

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