長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

五月十七日、「織田・徳川の大部隊が続々と野田城方面に到着し、野営を始めた」というので、設楽原一帯は、にわかに慌ただしくなった。
長篠城を囲む武田軍との間に、「今まで経験した事のない大きないくさが起こる!」村人の誰もが、そう予感した。
庄屋は、迷わず村人全員の避難を決断した。女・子ども・年寄りをはじめ、何軒かがまとまって避難するよう、急ぎの達しを出した。
避難先は、竹広から東、山つきの村は出沢奥の小屋久保であった。
ここは大正の時代まで、布里方面の人が新城へ行き来した旧道沿いの七久保の近くで、現在の雁峰林道の少し上、山仕事や薪取りに村人がよく出かけていた所である。
近くに水もあり、村里からは見えないが、隣の草鹿山(浅間山)へ上れば設楽原は一望できる。
今でも、茶碗や徳利のかけらが出てくる。

小屋久保石柱と案内板

PAGE TOP