長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

古戦場かるた四十八句の締めくくりは、「今悲し」で結んでいる。
この「悲し」には三つの気持ちが込められて詠まれたという。
第一は、天下に迫るところまできた「武田の雄図」の挫折である。
それだけ織田・徳川連合軍に敗れたここでの痛手は大きかった。
第二は、七年後に甲州の田野(天目山)で勝頼が自刃して、戦国武将の武田氏は滅ぶが、(勝頼)若きが故の敗戦の悲しさがある。
第三は、平安末期武田の庄から始まって、五世紀にわたって甲州の本主として存続し、近隣諸国に大きな影響を与えてきた名門の歴史の悲しみである。
天正三年春、甲州を出発するとき、武田軍に「京めざす」意図があったとは、出陣規模からみて考えられない。
だが、信長全軍が設楽原に布陣して、長篠城包囲の武田軍に迫ろうとしない様子に、總指揮官勝頼は「京めざす」幻影を見たのであろうか。
決戦前日の勝頼書状は、「敵・・・一段と逼迫の躰に候」と記している。

馬防柵から望む設楽原古戦場

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