長篠・設楽原古戦場 いろはかるた巡り

馬防柵再現地付近から、連吾川に沿って三百㍍程北上すると、左岸の水田地帯が少しずつ高さを増して畑となり、市道「県社線」にぶつかった先が突然比高十㍍程の小山になる。
現在は平地にぽこっと飛び出た文字通りの小山であるが、土地の人たちは、そこから雁峯山方面へ百㍍程伸びた台地が削られたのだという。
連吾川を渡ったこの丸山台地に、織田軍の主力部隊である佐久間信盛や滝川一益が布陣していた。
連吾川左岸で、最初から連合軍が陣を構えた唯一の場所へ、二十一日早朝、武田軍右翼の先陣を切って馬場信房隊の猛攻が始まった。
相手に比べ少数ではあったが二手に分けて攻撃する信房の作戦が功を奏し、佐久間隊は後退し、武田軍は丸山台地を押さえた。
勢いに乗った武田右翼の真田兄弟隊・土屋昌次隊は、連吾川右岸の馬防柵第一柵を突破したという。
馬防柵ラインから半町程進んだ織田陣内の一角に、現在、武川衆米倉正継の碑がたてられており、武田猛攻の跡を偲ぶことができる。

米倉丹後守正継の墓

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